愛のミュージシャン ささざきゆづる@関西支部 Presented笹崎の歴史
新しいコーナーなのだ! ただ、なんとなく書いてみたくなっただけなのだ!!
笹崎はなぜこうまで音楽が好きになってしまったのか!? それが説き明かされるコーナー!!!
めったに使わない「!」をごくごくたまにつけると、どうでもいいことも勢いで言えていいですね。・ささざきの実態
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◆笹崎の歴史1(96/9/19)◆
●Beethoven チェロ・ソナタ第3番
0歳の時だか、1歳の時だか、とにかく生まれて初めて笹崎のお気に召した曲。別に両親が音楽に造詣が深かったわけではないのだが、情操教育と思ったのか、それとももらいもののレコードをかけなけきゃ損だと思ったのか、クラシック音楽をたくさん聴かされる。MozartもStravinskyもMahlerも聴かされたらしいのだが、その中でBeethovenのチェロ・ソナタ第3番が大好きになる。子供は正直。その曲が世間で有名かどうかなんてぜんぜん関係ない。よい曲はよいのだ(←とっても大事なことですね)。
こうして、どんなに泣きわめこうがこの曲さえ聴かせれば100%泣きやむ、親にとっては便利な子供となった。同じBeethovenのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」でも、泣きやんでいたらしい。
次回は幼稚園の頃。
◆笹崎の歴史2(96/10/4)◆
幼少は福島県福島市で過ごす。家のそばに阿武隈川が流れていて、冬になると白鳥がやってきたのを覚えている。
さて、幼稚園、である。礼拝のとき(カトリック系だったのだ)、先生(女性)がピアノでChopinの夜想曲第2番を弾いてくれた。これは、子供のときから(このときも子供だったが)ルービンシュタインのレコードで何度も聞き、一音一音細かいところまで覚えている曲。楽器というものがあってそれを人が弾くと音が出るのだということすら知らなかった私にとって、自分にもChopinが弾けるかもしれないことはそれこそ世紀の大発見なのであった。親にピアノを買ってくれるよう三日三晩泣きわめく。このときばかりはBeethovenチェロ・ソナタ第3番の効果もなく、ひたすら泣いていたのであった。
ピアノ到着。笹崎母が「ねこふんじゃった」を弾く。自分に弾けない曲が笹崎母に弾けることがめちゃくちゃ悔しかった。2日間ピアノと格闘、泣きわめきながら、なんとかものにする。
ピアノの先生(女性)について習い始める。ソルフェージュもやった。絶対音感があることが知らされる。卒園のころには、ソナチネとかやってたので、上達は早かった。
卒園と同時に、松戸市稔台に引っ越すことになる。お別れパーティーのとき、仲のよかった女の子2人に自作の曲をプレゼント。仲のよかった男の子も一緒の場に居合わせたのに、何もあげなかった。やはり、笹崎のすべてのやる気の源は、女の子。
次回は小学校。オルガンを弾く女の子との出会い。
◆笹崎の歴史3(96/11/12)◆
小学校1年の時に福島から松戸に越してきた、きわめて内向的な(今でもそうである)笹崎少年。ピアノが弾けることはしばらくの間黙っていた。男なのにピアノ弾くのなんて、といわれるのがいやだったのだ。まあ、そうしていてもばれるものはばれるもので、小学校3年の時には、全校朝礼とかで弾かされたり、合唱部のピアノ伴奏の賛助をしたり、という生活になってしまう。
小学校3年のとき、ボーイスカウトに入団(すげえ似合わないだろ、笑うなよ、笑うなったら、お願いだから)。その活動拠点はなぜか近所の教会であった。ボーイスカウトなのに、お祈りするんだよ。変だよね。ボーイスカウトってキリスト教系だっけ?
さて、そのお祈りの間にオルガンを弾いてくれる女の子がいたわけだ。いつも、牧師さんが聖書を読んでる間、Bachの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾いてくれるのだった。その女の子が好きだったかというと、決してそういうわけではないのだが、ちゃんと毎週出席してお祈りした。いつも不思議な気持ちで。しばらくして、その女の子は転校でどこかへ行くことになってしまった。最後にまた、いつもの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾いてくれた。とても不思議な気持ちだった。
さてさてさてさて。ボーイスカウトの世話役(っていうのかな)は自称アマチュア・バリトン歌手で、笹崎少年そのピアノ伴奏をやった。その人が指揮している女声合唱団のピアノ伴奏もした。歌曲ではSchubertの「冬の旅」とか「美しき水車小屋の娘」など、合唱では中田喜直さんの曲(「夏の思い出」「雪のふるまちを」などが入った女性合唱曲集があるのだ。なかなかの名曲。)なんかをやった。なかなかのもんでしょ。ヴァイオリンの伴奏もしたらしい。今でもピアノ独奏より伴奏ピアノや室内楽ピアノのほうが好きなのは、こんな過去があったからなのだ。
こう書くと、すごく真面目な音楽少年のようであるが、実はとてもそうはいえないのであった。なぜなら、笹崎少年は小学校3年の時に麻雀を覚えてしまったからである。
次回は小学校6年頃から中学校まで。たぶん。
◆笹崎の歴史4(96/12/8)◆
今回は小学校6年の時の話。
「東京に行って本格的に習ったほうがいいよ」とピアノの先生にいわれ続けながらも、小学校6年の頭までずっと習う。ということは、やめてしまったんですな。親が病気で入院してしまい、母方の実家である栃木県塩谷郡喜連川町に3〜4カ月転校、それでやめてしまったのだ。でも、今の87倍くらい速いパッセージも弾けたもんだから、松戸に再び戻ってからはあいかわらず教会のオルガン弾きとか、合唱や歌曲なんぞの伴奏は続けていた。
ある日、麻雀友達とそのご両親(麻雀の師)と後楽園に野球観戦に行ってビール飲んだ帰り(小学生になのに飲むなよ、笹崎少年!!)、なぜかレコード屋さんに行くことになり、そこでDebussyのピアノの譜面をいっぱい買う(「版画」「前奏曲集」「喜びの島」「映像」とか、およそフランス音楽初心者がいきなり買うようなものではないものを)。Bach、Haydn、Mozart、Beethoven、Chopin、Schumannなど古典的な音楽ばっかりやってきた笹崎少年にはとても新鮮な音だった。斬新でさえあった。ピアノから今まで聞いたことのない光と水でできた透明な音響が立ち上がる。いかん、どんどんDebussyのエッチな音楽に痺れてしまう。陶酔的な和声、不思議な形式、微妙で柔らかい音色。こんな響きがこの世にあったとは。
そんなわけで今でもDebussyを聞くと、初めてのビールの味と麻雀と小学校の思い出が頭の中で交錯するのである。
◆笹崎の歴史5(97/1/1)◆
とてもとても幸せだった中学時代。何を隠そう、校内校外にファンクラブができた。もう一生こんなことはないに違いない。合唱コンクールにピアノで賛助出演してこうなったわけだが、いやあ、この時代に戻れるものなら戻りたいですなあ、はははは。
話はかなり変わって、いきなり突然唐突だが、中学校の理科室には冷蔵庫があった。きっと本来は塩酸とか硫酸とか冷やすためにあったんだと思うけど(←違うかも)、長い間ずっと何も入れられてなかった。で、ぼくらはジュースとか冷やした。でも、やっぱり夏はビー●である。奥の方に●ールを入れてタオルなんかで隠しちゃってまわりをジュースで囲えばできあがり(今考えれば、ばれてたような気もするけど)。おいしいビ●ルを飲んだ帰りに友達の家で麻雀をするという優雅な生活を送ったのであった。
音楽の方はというとたいしたことはやってなくて、さっき書いた合唱のピアノ伴奏とかブラバンの打楽器とかの賛助生活。ピアノのレッスンもやめてしまっていたので、音楽的にはたいした進展はなかった。
そんなある日、FMを何気なくつけるとオペラ・アワーが始まるところだった。なぜか録音もとった。Verdiの歌劇「トロヴァトーレ」だった。笹崎家にはオペラのレコードがなかったから、オペラと初めて出会ったのはこの時だったかもしれない。よっぽど波長があったのか、このオペラが熱烈に好きになった。すみずみまで覚えた。テープが伸びるまで聴いた。それからしばらく、週に1回のオペラ・アワーを録音するのが癖となる。この録音癖は大学いっぱいまで続くことになるのであった。今ではテープ約3500巻を数えるに至っている。
次回、笹崎少年はマンクラに入部!!
◆笹崎の歴史6(97/2/11)◆
いよいよ笹崎は高校に入学。マンクラに入ってしまった。なぜだろう……。
初めての合奏。この感想はほかの人とかなり違う。ほかの大勢の人と合わせる喜び、そう感じるのが普通かな。それはなくはなかった。しかし。まず、「この変な音はちょっと耐えられない」、そう思ったのだ。僕の知っている音楽世界には、写譜ミスやオーケストレーションの悪さからくる「変な音」は一音たりともなかった。世の中にこんな理不尽な音は存在してはならない。
変な音がするなんて、周りの人に言っていいものかどうか。「なんか和音が違いませんか」と先輩におそるおそる言ってみたのはだいぶ時間がたってからであった。「そう? ぜんぜん気にならないよ」。あっさり言われてしまった。でも僕には明らかに「変な音」なわけで、しばらく困ったままであった。
そして、この不協和音を全滅させてやるなんて思ってしまったのだ。この後、「変な音」をなくすために何年も苦労することになる(能力、ではなくて、ある種政治的な側面ナ)。
話は変わって、興味を持った音楽の話。どうやら興味のある音楽の歴史をたどると、音楽に対する読みの深さみたいなものがみえておもしろい。以下は、もっとも読みが浅い頃の話である。
だいたいの場合、初めはかっこいいものと超絶技巧見せつけものが好きになる。まあ、基本ですね。ここを通り過ぎない人は、まずいないんじゃないかな。というわけで、笹崎少年はまずTchaikovskyなんかのロシア音楽が好きになる。かっこよさ、きれいなメロディ、この2つがいい音楽のすべて、なんて思ってたかもしれない。最後がppで終わる曲なんて曲じゃない、そんな気もしていた。
今思えば、Tchaikovskyみたいな音楽って(もちろん全部とはいわないけれど)、時代劇に通じるところがあるように思う。8時30分過ぎにはお風呂に入る女性、最後には「この印籠が目に入らぬか」ハッピーエンドめでたしめでたし。涙お誘いメロディとかフォルテッシモ・ティンパニ・シンバル炸裂ジャーン終わりとか、お決まりだとわかっていても、かっこよさと美しい旋律の魅力には勝てなかったりするのだ。やはりこの明快さが、音楽初心者にはたまらないのであろう。思うに、マンドリン愛好者のほとんどはこのレベルにとどまる。
次回、笹崎少年はほんの少し進歩するらしい。
◆笹崎の歴史7(97/4/13)◆
僕の場合、かっこいい、の次は「官能的」でした。FMのRavel特集を録音したのがそのきっかけ。配慮の行き届いた繊細なオーケストレーション、大胆でありながら心地よい和声進行。とくに「ダフクロ」の夜明けの最後の部分、厚みを増しながら少しずつクレッシェンドして最高点に達するあたりなんかは、「あんまりヘビーでないジェットコースターが低いところから高いところに惰性で減速していって頂点についた時に感じる心臓の少し浮き上がったような気分」(わかるかしら、これで)がするのでありました。
この頃のもう一つの興味は、でかい編成、変な楽器、でした。きっかけは、Stravinskyの「春の祭典」やHolstの「惑星」といったお決まりの曲って感じですね。譜面を買ってきて、アルト・フルートだの、バス・オーボエだの、そんな楽器が載っていると、なんか買い物の時におつりを余計にもらったようなうきうきした気分になったものです。この傾向はしばらく続き、MahlerやR.Strauss(ヘッケルフォンとかウィンドマシーンとかハンマーとか)、果てはMessiaen(やっぱりオンドマルトゥノですかね)に始まる現代音楽への興味へとつながっていったのであります。さらに、「●管編成」という便利な言葉に出会い、編成のもっとばかでかい曲を追い求めていった、幸せなひとときでありました(コンサートホール用の曲ではScoenbergの「グレの歌」がいちばん大きい編成なのかしら、変則5管編成でフルート8本、クラリネット7本、ホルン10本とかで)。
コンサートにもぼちぼち行き始めました。まあ、マンドリンクラブだったから、マンドリンの演奏会はそれなりにけっこう行きましたが、オケの方も、それなりに。この時期の演奏会でいちばん覚えているのが、クラウディオ・アバドさん。曲目は、Stravinskyのバレエ音楽「火の鳥」1919年版と、Mahlerの交響曲第1番だったと思います。演奏会終了後、サイン会があるというので、僕もプログラムを持って長い列に並びました。少しずつ列は進み、僕の数人前の人の番になりました。その人は、なぜか野球のボールをアバドに差し出しました。アバドは、「オー!!」とかなんとか言いながらにこにこ上機嫌でサインをしていらっしゃいました。しまったーー、その手があったか!! 欲しいぞ、アバドのサインボール!!
次回、笹崎は大学に入学、でしょうか。
◆笹崎の歴史8(97/6/15)◆
高校の終わりのころから読売日本交響楽団の定期会員になり、一月に一度は生演奏を聴く生活が始まった。そのころの読売日響は、わりと上手だといわれていて(今はどうか知らない)、マイナーな曲もけっこう取り上げていた。笹崎青年は、この演奏会を通じて、世の中には知らない素晴らしい曲がいっぱいあるのだ、ということを知ることになる。
初めのころでもっとも印象に残っているのは、Prokofievのピアノ協奏曲第2番。3番は「越後獅子」とかが出てくる有名な曲なのだが、2番はそれに比べるとはるかにマイナー。作風も3番がProkofiev特有の「鋼鉄の響き」であるのに対し、2番は不協和音寸前の分厚い和音で綴られるスーパー・ロマンチック系。作曲家個人の作風の変遷とか、埋もれている名作はもっとあるんだろうなあとか、いろんなことを思うのであった。
さて、話は変わる。読売日響の定期演奏会はいつも上野の文化会館で行われていたが、ある日、文化会館の4階に音楽資料室があるのを発見する。無料でレコード(まだレコードの時代だった)が聴け、譜面も大量にそチているのだ。でも、あまりにも大量にありすぎて、何から聴いていけばいいのかぜんぜんわからない。とその時、あった、あった、「名曲解説全集」全27巻。そこで笹崎青年は何を思ったのか、「名曲解説全集」に載っている膨大な量の曲をかたっぱしから読破(聴破?)することを決意したのだった。ふつう、決意するか、こんな気が遠くなるようなこと・・・。
というわけで、大学へはあんまり(というよりほとんど)行かず、松戸(午後起床)→上野→三田(授業ではなくマンクラの練習)→駒込のS宅→帰宅、というサイクルができあがる。ちなみに大学4年間の授業の出席率(テストを除く)は、語学や体育も含め、年ごとに25%、10%、0%、0%。この出席率で4年間で卒業できた人はほかに知らない。もちろん、まねすることはお勧めしない。ちなみに、僕のまねをしたために5年間通うことになった方はかなりいるらしい。羽村方面の人とか、仙台方面の人とか、金町方面の人とか(今はどこ?千住?ロン毛の映画男優?)。
次回は、現代音楽との出会い。ってことは、笹崎も高校の時には出会ってなかったってことなのね。
◆笹崎の歴史9(97/7/6)◆
で、「名曲解説全集」なのだが、しかも新しいオーケストラ曲から聴いていくことを決めてしまったのであった。MahlerニかR.Straussが新しい部類に入っていた笹崎青年にとって、あまりにも画期的な音楽との出会いがここに始まってしまったのだ。思い出に残る曲としては、たとえばこんな曲。
●Penderecki 広島の犠牲者に捧げる哀歌、チェロと管弦楽のためのソナタ
(譜面が黒く塗りつぶされているなど見たこともないような記譜との出会い)
●武満徹 弦楽のためのレクイエム (ああ!)
●矢代秋雄 ピアノ協奏曲・チェロ協奏曲 (日本にこんな素晴しい作曲家がいたなんて。)
●Berio シンフォニア
(Mahlerの交響曲第2番第3楽章にいろいろな曲をのっけていく、コラージュ技法との出会い)
●Lutoslauski オーケストラのためのリーヴル・チェロ協奏曲
(アドリブの積み重ねで曲を作る、という「不確定手法」との出会い)
●Messiaen トゥーランガリーラ交響曲
(数学的手法、移調の限られた旋法、鳥の声などなど)ほかにたくさんの知らない曲をかたっぱしから聴いていった。世界が突如として広がり、豊かな(歪んだ?)水平線が見えたような思いであった。
さて、いわゆる日本の「民族音楽」(旧ソ連のKhachaturianとかが同じ分類に入るんだと思う)系統の曲にほんの少しの間はまりこむ。ゴジラの作曲家でもある伊福部昭の「日本狂詩曲」を聴いたのがそのきっゥけ。日本のお祭りをそのまんまオーケストラの大音響でやってのけた曲。わかりやすく、ひたすらうるさい。頭から終わりまで拍をとり続けるゴング、日本民謡の節を延々と歌い続ける金管楽器群(ってよりここまでくると「楽器軍」ですな)。今となってはこんな曲が好きだったこと自体自分にとって恥ずかしいことでもあったりするのだが、日本の現代音楽と出会えたのはこの曲との出会いがあったからからなので、変に感謝していたりはする。ちなみにCDは「ラウダ・コンチェルタータ」というマリンバ協奏曲とのカップリングで手に入る。「ラウダ・コンチェルタータ」も、わかりやすくうるさい民族音楽系統の音楽なのだが、こっちは未だにちょっと好きだったりする。恥ずかしいけれども。
一方で笹崎青年は、いい曲と出会うたびに、クラブでやってるようなことが果たしていったいどうなのか、世の中にはこんなに素晴しい音楽が充ちあふれているのに、という念に苛まれるようになる。この解決には数年かかることになる。
次回、笹崎青年はさらに泥沼に。
◆笹崎の歴史10◆(97/8/13)
(前回までのあらすじ)
>上野文化会館資料室に通う日々が続く。
>一方で笹崎青年は、いい曲と出会うたびに、
>クラブでやってるようなことが果たしていったいどうなのか、
>世の中にはこんなに素晴しい音楽が充ちあふれているのに、
>という念に苛まれるようになる。
>次回、笹崎青年はさらに泥沼に。そういうわけなのである。とうとうあまりの刺激に深刻にならざるを得ない曲と出会ってしまったのだ。なにしろその曲を聴いた直後、クラブに出る気をなくし、しばらく無断欠席。それほどショックであった。その曲とは、Bergの歌劇「ヴォツェック」。
「形式」と「主題の展開」がこんなに厳密で、しかも意味を持って迫ってくる曲は初めてだった。以下、「ヴォツェック」の簡単な形式とすごいなあと思ったところ。
第1幕−呈示、第2幕−急転、第3幕−破局、すべて5場からなる。すべて5場からってところからして、計算されているわけですね。
第1幕−−−第1場−組曲、第2場−3つの和音によるラプソディ、第3場−軍隊行進曲と子守歌、第4場−12の異なる音からなる主題によるパッサカリア(12音技法がまだ確立されていなかった頃に、である)、第5場−クワジ・ロンド
たとえば第1場は、前奏曲、サラバンド、ジーグ、ガヴォット、アリア、前奏曲の逆行(テープを巻きもどすのと同じ原理)による反復からなっていて、いずれも調はまったくない。それぞれに主要楽器が割り振られていて、歌に対するオブリガードを演じる。 ヴォツェックは始めのうちは無気力にDesの音だけを歌い、大尉に完全に屈服していることを意味していたりする。
第2幕は交響曲。第1場−ソナタ(呈示、反復、展開、再現)、第2場−幻想曲とフーガ(医者と大尉とヴォツェックの主題による)、第3場−Schonbergの第1室内交響曲と同じ楽器編成による緩徐楽章、第4場−スケルツォ、第5場−序奏(1幕2場の和音による)とロンド。
第3幕はインヴェンション−−−第1場−1つの主題による(7ャ節の主題による7つの変奏曲とフーガ)、第2場−1つの音による(H音)、第3場−1つのリズムによる、第4場−1つの和音による、間奏曲−1つの調による(ニ短調なのだが、調性は限りなくないに等しい)、第5場−1つの音価による(8分音符による無窮動)。
ヴォツェックが妻マリーを殺害してしまう2場はほんとうにすごい。心臓の鼓動がティンパニのHで奏され、マリーが「助けて」と2オクターブのH音で下降すると、今までに出たマリーにまつわる主要主題が走馬灯のように2〜3秒の短い間に回想される。場面転換の音楽は有名なH音だけによるクレシェンド。あまり知られていないが、1回目のクレシェンドのときの楽器の入りは次の場のリズムに拠っており、続いて出る1発の不協和音は第4場の和音であったりもする。
こんな風に、1つ1つの場を単独で見ても厳格にできているのだが、さらに、場と場のつなぎはすべて前後2つの場の要素両方を巧みに使った間奏曲になっているなど、全体的な統一がなされている。主人公が同じ記憶から気分が高ぶるところなど、巧妙に同じ音楽が配される。「キノコの上に転がる生首の幻想」「足元で何かがうごめいている錯覚」「地から点に燃え上がる火の轟きの幻影」など。もっと言えば、第1幕の最後、第2幕の始まり、第2幕の最後、第3幕の最後は同じ不協和音。第2幕は、第3幕でもっとも重要なHの音で終わっている。
まあ、てな具合なわけで(どうだ、ぜんぜんわからないだろ)、要はすごく厳格にできているのだということ。細かいところはまだまだあって、笹崎所有のスコアにすべて書き込んであるので、興味ある人は大阪まで聴きにきなさい。
さてさて、この曲を聴いた直後、「形式」や「主題の展開」がほかの曲ではどんな風だったかとっても気になり、集中調査の結果、わずか数週間のうちに好きな曲が入れ替わってしまうほどの価値観の転換が起きる。どう変わったかは次号。
◆笹崎の歴史11◆(97/9/14)
「形式」を探究していくと音楽がはっきり見えてくる、そう思ったのだった。今でこそ形式がすべてだなんて思わないけれど、そのころは、ほとんどすべてだった。とくにドイツ・オーストリアの音楽(ほんとは一緒にしちゃあいけない)を追って行くと、ソナタ形式の拡大と崩壊の歴史が見えてくる。正確に言うと、ソナタ形式を中心とした必然性の追求と崩壊の歴史。
Haydnで確立されたソナタ形式は、Mozartの交響曲41番の終楽章から拡大の歴史が始まったと僕は思っている。違うかも知れない。僕は学者じゃないので、正確なところはわからない。でも、そんな気がする。明らかに41番はソナタ形式の枠をはみだしてしまっている。たとえば第2主題の提示部分で、第1主題の対旋律が重なる。そんなことは今までのどの曲にもなかった(たぶん)。コーダに至っては、いままでのすべての主題や対旋律が一斉に対位法で処理される。これも今までにはなかった(たぶん)。
Beethovenの交響曲第3番は「だましの形式」だと思う。こんなことをいう学者がいるのかどうか知らないけれど、でも、そう思う。
第1楽章再現部、戻ったかと思わせて、なんか違う調性へと逃げていく。 「あれ、再現部じゃなかったっけ、まだ展開部なのかしら」と思ったころに本格的な再現となる。してやったりである。
第2楽章はもっとすごい。葬送行進曲といえば、普通はABAの形式。その通り曲は進む。Aはハ短調の行進曲、Bはハ長調のトリオ。わかりやすいじゃないか。ところが、Aに戻ってしばらく。事件は起こる。なぜかヘ短調へと曲は向かっていく。あれ、と思った瞬間、いきなりフォルテでフーガが始まる。展開部だったのだ。そのフーガもそのうち落ち着き、もういちどAの再現だよ、とでもいいたげな部分がやってくる。ファーストヴァイオリンだけ残って、Asの音が最弱音で響く。やれやれやっと戻るか、と思った瞬間、フォルテッシモの低音と金管の強奏。ああ、びっくりした。
4楽章もけっこうきている。前奏つきの変奏曲形式だと誰もが思う。対旋律が出たときはちょっと、おや? と思うけれど、変奏曲続いてるし、まあいいか。でも気がつくと、いつの間にか、フーガになっているじゃないか。それもちょっとやそっとのフーガでなく、見事な対位法を駆使した本格的な展開部になっていたことにようやく気付くというシカケなのだ。そして、さらに気付く。もしかしてあの対旋律は第2主題でもあったのだ、ということに。
Beethovenの交響曲第5番は、楽章間の形式拡大の歴史の第1歩だと思っている。Mozartの交響曲25番では、という人もいるけれど、あれはたまたまだと僕は思っている。今までの交響曲は、始めがハ長調だったら、あとにどんなト長調の緩徐楽章がきてもいいし、どんなハ長調のメヌエットやスケルツォがきてもよかったし、どんなハ長調の終楽章がきてもよかった。つまり、たとえばHaydnの交響曲を全楽章ばらばらにして調性の合うものを入れ替えても、それはそれで成り立ってしまいそうだ、と、そういうこと。
順番を入れ替えると曲にならない。それを僕は「必然性」という言葉に置き換えることにした。この1楽章だからこの2楽章が、という必然性を初めて持ったのがこの曲だと思う。つまり、3楽章の音楽は4楽章で回想されるし、全編を通じていわゆる「運命の動機」が共通のモチーフとなっている。 第9交響曲なんかはもっと顕著だ。第4楽章の頭の部分で第1楽章から第3楽章まですべて再現される(ちなみに第4楽章はこれまた「だましの形式」 になっている。ここでは説明しないから興味ある人は飲みに行った時に)。 こういうやりかたは、いわゆる「循環形式」とよばれる道へとつながっていく。きっとWagnerの「ライトモティーフ」なんかも根源的には同じ考え方なのだろう。
そういえば変奏曲も同じようなことがいえる。今までの変奏曲だったら、たとえば第3変奏と第5変奏あたりを入れ替えても曲になっていただろう。第5交響曲の2楽章はそうはいかない。はじめは4分音符、次に8分音符、次に16分音符とだんだん細かい動きへと変奏されていくのだ(ちなみにこの第2楽章は単純な変奏曲の形式を逸脱している)。
Brucknerの時代になると、第3主題まで出てくるようになるし(拡大)、Franckの交響曲以降なんかは、全楽章に同じ主題が用いられたりするようになる(必然性)。
崩壊するところまで説明すると長くなるので省く。いずれにしてもこんな考察(?)を大学1年の時にしてみた。根本的な考え方は今もそんなには変わらない。形式がすべてではないと思うようになっただけだ。
しかし、困ったことに、マンドリンの曲をこの理論(?)にあてはめると・・・・・・。それは次回に。
◆笹崎の歴史12(今回はとくに長文)◆(97/11/21)
いかにクラシック音楽が理論的な形式にのっとって創られているか、研究すればするほど深みにはまっていく笹崎であった。研究の末、「これはキている!」と感動をもたらしてくれた作曲家が、Bartok。
黄金分割。こんな言葉が音楽形式の歴史の中に出てくると、もうこれだけで笹崎は嬉しい気分になっていた。忘れてしまった人と、覚えることのできなかった人のために、解説せねばなるまい。
ある長方形ABCDから、その短い方の辺を一辺とする正方形CDEFを取り除いた、その残りの長方形ABFEが、もとの長方形ABCDと相似形になる時の相似比、AE/ABを黄金比という。
長さABを1、長さBCをaとした場合、
1:a=a−1:1
a(a−1)=1
a=(1+ルート5)/2 または a=(1−ルート5)/2正数の方なので、aの値は1.618くらい。 求めたい比は(a−1)なので、だいたい0.618となる。
どうだ。あんちょこも見ないで書いちゃったぞ。だてに高校時代数学の成績10を連続してとってないのだ。でも、AEをaとしとけば、もっと計算楽だったはずなことにここまで書いてから気がついたが。
でね、この黄金比ってのは自然界を司る比率だったりするわけなのだ。たとえばカタツムリのいちばん外の渦巻きに黄金比をかけるとその内側の渦巻きの位置と一致する。そしてまたその渦巻きに黄金比をかけると、またその内側の渦巻きと・・・。なんと不思議なことだろう。さらに、植物を上から見て、ある枝とそのすぐ上にある枝の角度の差に黄金比をかけると、次の枝が出てくる角度の差と一致したりもする。中国三千年の歴史といったところか。
あともうひとつ。フィボナッチ数列ってのがあって。これも解説しなければなるまい(タイムボカン)。1つ前の数字をたしていくという数列。
1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、・・・
というやつである。
となりどうしの数字の比(13/21、21/34、34/55・・・) は、ある値に収束する。その値とは、黄金比。
Bartokはこれらの数字を応用したのである。
たとえば、「弦楽のためのディヴェルティメント」では、1〜3楽章全部の8分音符の数に黄金避かけると第3楽章の頭に一致したりする。 「弦チェレ」の1楽章のフーガは全8分音符の数に黄金比をかけたところがクライマックス。そこにさらに黄金比をかけたところにも仕掛けがある。はじめてティンパニが入り、弦楽器が弱音器をはずしはじめるのだ。その間の8分音符の数に黄金比をかけると、・・・という具合に黄金比は活用される。
ピアノ曲で「アレグロ・バルバロ」という曲があるのをご存じだろうか。野蛮主義の代表的な曲である。ズチャズチャいう野性的な伴奏が合いの手を入れるのだが、この回数はフィボナッチ数列の数を使用している。13回とか半端な数が出てくるのはこのためだったりする。
ほかの曲でも2度、3度、5度、8度、13度は重要な役割を演じる(Bartokの場合、この数字は半音で数える)。
ここまできてさらに思い出したのだが、黄金比をGとすると、(1−G)=Gの2乗 という性質もあるのだ。ということは2回黄金分割したところは非常に重要なポジショニングであるということなのだ。
映画界でもこの黄金比を応用して、作品の長さに黄金比をかけたところにクライマックスがくるように仕組んだものもあると聞いたこともある。
笹崎は、一時この技法にぞっこんであった。この世でもっとも尊敬すべき作曲家に思えた。
さて、こんな音楽の歴史を知ってしまった笹崎は、当然、マンドリンのために書かれた作品をほんとうにつまらないものだと思うようになった。 たとえば、ソナタ形式で書かれた作品といえば、
・Cerrai 序曲
・Falbo 序曲ニ短調
・Falbo マンドリン四重奏の第1楽章
・Bottacchiari 交響的前奏曲
・Milanesi 「愉快な仲間」序曲
・Cappeletti 劇的序曲
・Gal シンフォニエッタ
・Bracco マンドリンの群れ(これはいちおう三部形式ではないのだ)有名なところでは、こんなところか。腐るほどマンドリンのために書かれた曲があって、こんなもんである。両手くらししかないぞ。しかも、分析すれば誰でもすぐにわかるが、いずれの曲も、もうほんとうに幼稚である(なんなら、どこがどうだめか分析してもいいけれど)。
ソナタ形式と並んでクラシック音楽をささえてきた変奏曲形式で書かれたものは、
・Milanesi 主題と変奏といくつかのソロ作品くらいか。
いずれも、変奏曲としての完成度は涙が出そうなほど低い。
ほとんどのマンドリン作品は、三部形式でできている。三部形式が悪いとは言わないが、まあ、いってみれば誰でも書けるんである、この形式は。大作曲家であれば、単純な三部形式にも細かい工夫を凝らす。ABAのBで出た伴奏音型を再現部でも用いる、とか、和声的な細工をしたり、とか、いろいろ。マンドリンの曲には、そんな工夫はほぼないに等しい。
こんな曲をまじめにやっていることに何か意味はあるのだろうか。いい音楽とマンドリンと、この2つを両立させる方法はあり得るのだろうか。
笹崎の悩みはさらに深まる。大学2年の頃であった。
◆笹崎の歴史13◆(97/12/21)
大学2年の頃の笹崎の生活。朝起きると、たいてい昼をまわっている。昼ごはんを食べて大学に向かっても4限が終わっているので、行かない。クラブにはとりあえず行く。クラブが始まるまでは上野の文化会館でレコードを聴く。会社で同じことやったらすごいだろうなあ。何日で解雇になるかなあ。
そのころは、知らない曲をいかにたくさん聞くか、がテーマであった(おいおい、勉強しろよ)。でもお金もないんで、上野の文化会館に行くか、ラジオのエアチェックのどっちか。とくに、ラジオのエアチェックには命をかけていた。そのころの遺産は1500巻のテープとなって今でも笹崎家の押入に格納されている。
さて、そんなある日、Schnittke(シュニトケ)さんのヴァイオリン協奏曲第4番の初演のFM放送があった。頭の鐘とプリペアード・ピアノのすごい音。その後出てくるSchubert風の変イ長調の美しいテーマ、そしてそのテーマが突然不協和音の世界へと崩壊。調性音楽と混沌とした不協和音の交代。こりゃあすごい。目玉が0.5ミリくらい飛び出た感じがした。度肝を抜かれるとはこういうことをいうんだろうなあ。これですっかりSchnittkeファンになってしまったのですな。
当時のSchnittkeさんは、有名でもなんでもなかった。無名の作曲家のファンになるというのは、なんだかいいことだ。自分だけの宝物だ。Schnittkeさんが巷で大ブームになったのはそれから数年後のこと。こんな体験があったりするから、第二第三のSchunittkeさんを求めて、わけわからんCDを今日も買ってしまうのだなあ。
そのころ聴いた思い出のコンサートをいくつか。
大学2年の夏。読売日本交響楽団の定期演奏会でSchchedrin(シチェドリン)編曲のカルメン組曲が演奏される。これは僕の付近でたいへん流行ったのでご存時の方も多いかな? 弦楽器とたくさんの打楽器を使って、Bizetのカルメンを意味不明な配列と強烈なオーケストレーションで綴った名編曲といえよう。オーケストレーションに今まで以上に興味をもったのは、この曲がきっかけ。
同じく大学2年の夏。バーンスタインを見にいく。このために大学の夏合宿を早く抜け出したような記憶もちょっとあるのだが。合宿よりはよっぽど大事だもんな、バーンスタインを見ることは。
でもって曲目はMahlerの交響曲第9番。圧倒的な演奏だった。Mahlerなんだかそうでないんだかわからないほどにバーンスタインの個性でできているのだが、Mahlerでもそうでなくてもよくなってきてしまう、それほどにバーンスタイン。あの時間と空間を共有できた人はとても幸せだ。
後日、自作自演の「ハリル」と「ウェストサイド・ストーリーよりシンフォニック・ダンス」、そして「Brahms交響曲第1番」という、今考えるとけっこう妙なプログラムも見にいった。飛び跳ねるバーンスタイン、これに尽きる。とても気分がよかった。
大学2年の秋。Bergの歌劇「ヴォツェック」を見にいく(指揮:若杉弘)。もしかして日本初演? 日本人の初演? 忘れたけど意義深い上演だったようだ。演奏はやっぱり日本人だと声量が、という点は否めなかったものの、意気込みは感じられる演奏だった記憶がある。プロって、なんだか意気込みを感じないことがほとんどじゃない? そんな中では好感を持てた。
この上演と同時に日本アルバン・ベルク協会が設立。入会しようかと思ったけど、周りの人がみんな空で「ルル」なんか歌えちゃったりした日にはどうしよう、と思ったまま今日に至る。
大学3年春。Berioのシンフォニアを聴きにいく。前に書いたかもしれないけれど、第3楽章はMahler交響曲第2番第3楽章のコラージュだ。楽章最後に「指揮者に感謝の言葉を言う」とスコアには書いてある。ちなみにその日は「Thank you, Michiyoshi! 」。
同じく大学3年の春。カルロス・クライバーを見にいく(Beethoven交響曲第4・7番のプログラムと、Weber魔弾の射手序曲・Mozart交響曲第3番・Brahms交響曲第2番のプログラム)。あの熱狂的な演奏を言葉で伝えるのはあまり意味がないなあ。体温が上昇する演奏という感じ。
次回は、「運命の日」。
◆笹崎の歴史14◆(98/1/25)
ある平日の昼すぎ、その電話はかかってきた。
S山「もしもし、S山です。寝てた?」
笹崎「今起きたとこ。今何時?」
S山「12時30分くらいかな。でね、本題なんだけど、JMJで■■■■■■■の◆◆をやりたいって、今度の指揮者の方がおっしゃってるんだけどね。どーだろーねー、弾けると思う?」
笹崎「・・・・・・。■■■■■■■の◆◆って知ってるけどさあ、相当な難曲なんじゃないの。弾こうなんて考えたことないしなあ。そんな曲できるのかなあ。」
S山「どうしてもやりたいっておっしゃってるのよ。」
笹崎「そしたらさあ、一度テープと譜面見るから、あと30分ちょっとしたらもう1回電話ちょうだいよ」■■■■■■■の◆◆を聞きながら、頭の中では自分の音楽人生を振り返らざるを得なかった。
■■■■■■■の◆◆は、よく知っている曲だ。
でも、マンドリンで演奏しようと思ったことは一度もない。
はじめから無理だと決めつけていた。
というより、発想の外にあった。
自分は人より相当多くの曲に接してきた。
それには自信がある。
なのに、いざ演奏会で何をやろうかというと、
今までのマンドリン業界の枠に戻ってしまう。
ナントカ序曲とか有名な管弦楽小品とかしか、発想として出てこない。
今までの延長でしか、ものを考えられなくなっていた。
狭い世界に身を置くことが、自分の視野をここまで狭めてしまうとは。
このまま閉鎖された世界の価値観で
音楽生活をしなければならないのだろうか。
そして笹崎は30分後、■■■■■■■の◆◆はできるかもしれないと答えてしまった。
「閉じられた世界」を強く認識してしまった笹崎青年。
これからいったいどこへ向かうだろうのか。そして、この後さらに音楽価値観を転換させられる重大な出来事がやってくる。次回へ続く。
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★ 今月の枕詞 ★
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★ たれちちの ★
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「母」にかかります。それでは、また。
◆笹崎の歴史15◆(98/2/15)
笹崎が大学3年の10月。チェリビダッケが日本にやってきた。チェリビダッケの名前を知ったのは、確か、僕が大学1年か2年の時だった。R.Straussの交響詩「死と変容」がラジオで放送された。文字では言い表せない感動的な音にはあった。曲が終わっても、ラジオの解説者が感動のあまり1分間以上黙ったままだったことを覚えている。
それからしばらく、チェリビダッケを生で聴かなければならない、と思う日々が続いた。しかし、なにしろ、幻の指揮者。そう簡単には日本には来なかった。しかし、ついにこの目で見る機会がやってきたのだ。
プログラムは、Rossiniの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲、R.Srtaussの交響詩「死と変容」、Brahmsの交響曲第4番。
なぜRossiniをプログラムに入れるのか、とても不思議だった。そのころの笹崎にとって、Rossiniはとてもつまらない部類の音楽だった。軽薄で、深みのない、どうでもいいものと思っていた。それをR.StraussとBrahmsと一緒にプログラムにのせるとは。きっと気軽に演奏される前座なのだろうと思っていた。
Rossiniが始まった。小太鼓のロールが1回。2回。3回。ヴァイオリンのH音のトリル。ちょっと驚いた。なんて柔らかな音なんだろう。普通は軽いアクセントで演奏される。その俗っぽさが僕はたまらなくいやだった。そしてその1秒後、Rossiniは軽薄で、単調で、おもしろくもなんともないという固定観念が土砂崩れを起こす。Eの和音が柔らかに、ていねいに演奏されたのだ。乱暴で軽薄なスタッカートの代わりに。たいへん控えめに言っても、今までの音楽生活の中でいちばん驚いた瞬間だった。「あいた口がふさがらない」というが、こういう時は口がいったん開いてから力なく閉じる。
Rossiniではなく、むしろMozartの音だ。序奏が、ゆっくりとした足取りで、ふくよかに進んでいく。重くなく、ていねいに、暖かく、立体的に。解決音は抜いて、しかも長めにていねいに処理される。このことでフレージングがはっきりし、和声の進行が意味を持って響いてくる。冒頭の低音がE−Dis−Cis−H−A−Gisと1音ずつ下降していることを初めて認識した。
序奏が終わり、主部へ。そのテンポの異常なまでの遅さは、ほんとうだったら驚かなければならなかったのだろう。しかし、説得力があるのだ。このテンポで第2主題に入ると、3連符と2連符の交替が実に新鮮なものになってくる。
感動したのは、そのあとのロッシーニ・クレッシェンドだ。余分な緊張感なしに、遠くから遠くからそのクレッシェンドは始まった。第1ヴァイオリンがH−C−H−Aisが2回演奏され、3回目にはH−C−H−Eと跳ね上がる。そのEの音はかなりデクレシェンドされた。そのあとの下降音型は、Eの音とはフレーフジングが別のものとして演奏された。おもしろい。つなげてしまうとだらだらした感じになってしまうのだが、なかなか絶な解釈だ。
クレッシェンドが続く。どこまで続くのだろう、そんな感覚だった。どこまで、の答えは知っているのに。それでもそう思わざるを得なかった。最後の最後まで音響は成長していった。たいがい、最後近くで一定の音量に達してしまってなんとなくフォルティッシモに入っていくのだが、チェリビダッケの演奏では最後の最後までクレッシェンドを感じた。音量だけでない。音質もどんどんふくよかになっていく。これが本当のロッシーニ・クレッシェンドなのだ。
R.StraussもBrahmsも想像以上の感動的な演奏であった。涙が流れそうになった。頭ではこのフレージングが、とか、ここで第2主題が展開されて、とかきわめてドライなことを考えているのに、流れるものは勝手に流れてしまうのだ。自分の意識とは別に。
さて。笹崎にとっては、なんといってもRossiniであった。世の中にこんなつまらないものがあっていいものかとさえ思っていた曲が、きっちりした解釈でこうまで素晴しい演奏になるとは。今までつまらないと思っていたものも、もしかしたら見過ごしていたものがあるはずだ。伝統という名の怠慢で本来の良さを発揮できていない曲がまだまだあるに違いない。
ちょっと光明が見えた笹崎青年。
次回は大学4年の頃のお話。
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★ 今月の記念日 ★
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★ 2月29日はニンニクの日(本当) ★
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今年はニンニクは記念されません。
◆笹崎の歴史16◆(98/3/22)
チェリビダッケの演奏を聴いてからというもの、「解釈」が当時の笹崎青年の音楽人生のすべてになった。よく知っていたと思った曲をまたまたひっくり返して分析してみた。「形式」を発見した時も同じようなことをしたことはすでに書いた。その時は全曲を大局から分析するだけだったのが、逆に和声の構造とかフレージングとかミクロの部分からもアプローチできるようになったのが成長の証だ。こういうマクロとミクロの分析を両方がっちゃんこするのって何ていうんだっけ。相思相愛?(←意味なし)
さて、笹崎は大学のマンドリンクラブで学生指揮者をすることが決まっていた。なんで指揮者をやりたかったは、たぶん「笹崎の歴史」読者にはもうおわかりのことだろう。言うまでもないので、言わない。
そんなわけで大学4年のときは、「世間では変な解釈でまかり通ってしまっている曲」を指揮することにした。マンドリン界で行われている一般的な解釈のレベルは果てしなくひどいということは当時でもわかっていた。演奏としては、練習回数もあんまりとってもらえなかったから、完成度はたいしたことなかったように思う。だが、解釈の面だけからいうと、今振ってもたぶんほとんど当時と同じ解釈をするだろう。その当時の笹崎にもそこそこの解釈のレベルがあったとも言えるけど、どちらかといえば、深い解釈能力を要求される曲がマンドリン・オリジナル曲にはなかったということだろう。
書いていいのか悪いのかわからないけれど、と書きつつ思いきり書いてしまうのだが、そこそこの曲はどうがんばってもそこそこにしかならないという永遠の法則も感じてしまったりした。つまり、100点中20点の曲があって、業界では8点の音楽になってしまっているのを20点に限りなく近づける努力をしたところで20点を越えることはない、ということだ。
それでもまあ、某慶應みたいな超保守的な団体に対して、解釈面での「歴史という名の怠慢」を問うてしまったわけで、それはそれでよかったのだろうとは思っている。
話は360度変わって(←1周しとるやん)、大学4年の時だったと思うのだが、早稲田交響楽団を聴きにいった。曲はMessiaenの「トゥーランガリーラ交響曲」。この曲を生で聴くのは2度目のこと。大学1年の終わりに三善晃さんの「響紋」(これはすごい、「かごめかごめ」の児童合唱と、炸裂する不協和音!!)の尾高賞受賞記念演奏会とのカップリングで1度聴いている。そういえばこの「トゥーランガリーラ交響曲」について何も言っていなかったので、ちょっと解説せねばなるまい。
オンド・マルトゥノという奇妙な電子楽器と、スーパー・ヴィルトゥオーゾ超人的なハイパー技巧が要求されるソロ・ピアノ、あと巨大な編成のオーケストラによる10楽章からなる交響曲。トリスタンとイゾルデ神話、世界の鳥の声、ガムラン音楽から影響を受けたリズム語法と音色、こんな要素を組み合わせた音楽である。第5・10楽章の終わりは、全オーケストラが吊しシンバル2つとゴングを含めてひたすらクレッシェンドして終わる。たぶんこの世のあらゆる曲の中でもっとも音量がでかい。「立像の主題」「花びらの主題」「愛の主題」の3つが定主題として全曲を貫くが、これより深い話は飲んだ時にしよう。18歳未満の方にはお断わりいただかなければならないし。で、Messiaen特有の「移調の限られた旋法」で書かれた部分が多く、調性的な響きもするので、現代音楽であるわりにはきわめて聴きやすい。とはいっても、演奏する側はめちゃめちゃたいへんだ。メロディー以外は不協和音の連続だし、リズムの複雑さは相当なもので、何拍目を演奏しているのかさえわからなくなってくる。 演奏者はトランペットのシンコペーションとか打楽器のアクセントなんか絶対聴いてはならない。聴いたら最後、2度と復帰不能になる。
そんな曲をアマチュアでとりあげること自体にまず感激した(もちろんピアノとオンド・マルトゥノだけはプロの人だ)。アマチュアのいいところって、なんだかんだいっても一生懸命さだと思うわけ。何かを成し遂げたい、という姿勢って美しかったりするでしょ。高校野球を見てるとなんで感動するかって、やっぱりそういうことなのではないのかしら。演奏のほうも、意気込みがびんびん伝わってくるものだった。演奏そのものがどうだったか記憶が薄れてしまったけれど、とにかく圧倒的であった。アマチュアたるもの、こうでなければならないと思った。
この演奏を聴いた時、どうしても学生のうちにやらなければならないことが頭に浮かぶ。それは、次回に。
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★ 今月の法則 ★
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★ ホワイトさんは、たいがい色が黒い ★
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巨人のホワイトも黒かった。LDの「ポーギーとベス」に出てきたホワイトさんも黒かった。外国人ってけっこううそつきだ。巨人のライト投手は左投げだったし。
それでは、また。
◆笹崎の歴史17◆(98/5/10)
「コンセプト」ということを強く感じるようになった。音楽団体の、である。それまでは、音楽において目指すべきものは一つであり、実力と気合いによってどこまで突き詰められるが決まるのだという偏差値的な考えがあった。文部省の教育方針にまんまとはまってしまったのだろうか。高度な音楽を目指す。これがすべてであり、自分の属している大学のクラブはその点で劣っている、そのくらいの考えであった。
そんなある日、いつものようにFMのエアチェックをしていたところ、不思議なアンサンブルの演奏会の録音が流れてきた。演奏団体の名前は「ケルンのフィルハーモニック・チェロ合奏団」という。チェロ6人によるアンサンブル。バロックの真面目な曲に始まり、Fallaの「三角帽子」の「粉屋の踊り」のかっこいい合奏、Villa−Lobosの「カイピラの小さな汽車ぽっぽ」の楽しい演奏、最後はジャズっぽい曲とかラグタイムとかお気楽な楽しい曲で盛り上げていくといった趣向である。高い技術を楽しいことに活かすのも素敵だなあ、始めて聴いた時はそう漠然と思った。そのうち、演奏会コンセプト、あるいは団体コンセプトに確かなものがあることを発見。その瞬間、一直線上に並んでいた各種演奏団体が、3次元、4次元の空間に放たれるのを感じた。コンセプトについて真面目に考えるようになったのはそれからだ。
楽しさを追及する団体があってもいいし、技術力を追及する団体があってもいい。仲間の団結を最優先するのでも、いっそ音楽以外の遊びに一生懸命になるのでもいいじゃないか、そう思えるようになった。テニスクラブやサークルがいい例。強さを追及する体育会があるし、そこまでいかなくても技術を追い求める団体もあるし、男女の出会いを最優先する団体もある。それでいいんだ、と思った。
そうなってくると、自分のやりたいことと大学のクラブのベクトルはかなり違っていることを痛切に感じた。その間に優劣はない。どっちがいいとか、どっちが悪いということもない。違うだけなのだ。ただし、相当に。
同時に、所属の大学のクラブにはそもそも目指しているものがあるのだろうか、と感じるようになった。大昔はきっとあったのだろう。音楽活動を行うことそれ自体が稀少価値であり、何をしても喜んでくれた時代。その時代を中心としたファン層の好みにあった選曲・演奏会コンセプト。そのファン層と楽員の指向が近いうちは、双方に喜びが存在した。時代は変わり、音楽以外の楽しみも格段に増えてきて、人が音楽に求めるものがおのずと変化してくる。一方、音楽そのものも多様化する。そんな新しい時代の楽員が増え、昔ながらのファン層の間にギャップが生じてゆく。その溝をどう埋めるか、あるいは客層をどう捉えて変化させていくかといったことに対して、どうしたらいいかわからなかった。あるいは、おそらく問題意識すらなかった。こうしていくうちに、目指すべきものそのものが見えなくなってきたのだろう。
昔ながらのファン層に訴えることが何よりも大事だと明言してしまえばよかったのだ。あるいは、歴史に流されることなく方向転換をすべきだったのだ。あるいはなんでもいい、ほんとうは何をしたいのかを決めればよかったのだ。自分がそんな大学のマンドリンクラブに一石を投じるような解釈の演奏を試みたことは前に書いた。そんな大学マンドリンクラブが今どうなっているか、よく知らない。
大学マンドリンクラブの話はこれくらいにして。笹崎青年は、自分の求めるものに忠実な音楽をしたくなっていた。いい音楽をやりたい。業界の常識とか、慣習とか、そんなものに一切縛られずに自由に自分のコンセプトを表現したかった。
そんな時、卒業演奏会をしないかと持ちかけがあった。大学2年の時にメトロポリタン・マンドリン・オーケストラという団体名で行った演奏会をもう一回やろう、ということであった。選曲もかなり任せてもらことができ、音楽としての完成度の高い曲ばかりを選んだ。1回目とは趣向の違う曲が並ぶことになった。さらに、どうしても演奏者として演奏したい曲が1曲あり、この指揮を小出先生にお願いすることもできた。やりたかったことはほとんど実現できた。とても幸せであった。
そんなわけで大学3・4年の間授業には1回たりとも出席しなかった笹崎青年であったが、無事「優秀な成績で(半分本当)」卒業し、社会人となる。メトロポリタン@幸せな卒業演奏会を最後に音楽生活ともお別れ。・・・のはずであった。次回に続く。
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★ 今月の法則 ★
★ 大阪の駅名はやたら長い ★
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★ してんのうじまえゆうひがおか(四天王寺前夕陽ヶ丘)★
★ てんじんばしすじろくちょうめ(天神橋筋六丁目) ★
★ おおさかどーむまえちよざき(大阪ドーム前千代崎) ★
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会社に行く途中に
「にしなかじまみなみがた(西中島南方)」
という駅がある。
その駅の近くにある郵便局は「にしなかじまみなみがたえきまえゆうびんきょく(西中島南方駅前郵便局)」
という(本当)。
2秒以内に言い終えることができたらアナウンサーになれるらしい(うそ)。それでは、また。
◆笹崎の歴史18◆(98/6/20)
大学時代最後に聴きに行った演奏会のプログラムは、武満徹の「トゥイル・バイ・トワイライト」の初演とMahlerの交響曲第9番。Mahlerの演奏は普通だったけれど、武満さんの音楽はとってもよかった。音楽生活と離れるにあたっては最高にいい思い出の曲だね、なんて思いながら武満トーンに浸る笹崎であった。
4月から社会人。7時出社、0時過ぎ退社の日々。帰れない日も数知れず。土日なし。覚えることは山のよう。余裕のない毎日。音楽生活からは、完全に遠ざかることに成功(?)した。
それでも、こんなひどい生活も時が経つと慣れるもので、3ヶ月もしたころからちょっと心にゆとりが出てきた。久しぶりに演奏会に行くとでもするか。これがいけなかった。この演奏会を聴いて以来、これまで以上に音楽どっぷりの生活に戻ってしまうことになるのだ。
カルロス・クライバー指揮、Puccini作曲、歌劇「ボエーム」。これが、笹崎が久しぶりに聴く「音」であった。そう、笹崎は半年もの間、テープでもCDでも音楽をまったく聴いていなかったのだ。音楽に枯渇している体にクライバー。五臓六腑に染みわたるとは、このことに違いない。
もう1幕から胸キュン(死語)状態であった。第1幕から有名なアリアが2つ続くのだが(「つめたい手を」「私の名はミミ」)、もう感動の渦。自分の意思とは裏腹に、目から塩分を含んだ液体が。続いて豪快な舞台の第2幕。何人の人が着飾って舞台に乗っているのだろう? 最後のミミの死の場面まで、息をつかせぬ名演。何たって、クライバーだもの。
この演奏会の後、手持ちの全財産をCD購入にあてる。笹崎のCD購入癖はこの時に始まる。意外と最近でしょ。
自分は音楽と離れて生活することなどできないのだ、と悟る。23歳、秋。
次回、笹崎の音楽観に変化が。
注)R社は忙しい会社ですが、当時に比べればまだましになっております。大学生の皆さん、安心して就職してくださいませ。(あまりフォローになっていない気が・・・)
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★ 今月の融合メニュー ★
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★ JR尼崎駅前ロータリーのうどん屋さんで発見。 ★
★ 「さぬききしめん」 ★
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だから、怒るって。四国の人も名古屋の人も。恐るべし、尼崎。
それでは、また。
◆笹崎の歴史19◆(98/7/26)
半年の音楽ブランクで、笹崎は素直に音楽に向かえる体になっていた。低次元な話なのだが、それは、マンドリンのことを考えずに音楽を聞くことができるという意味だったりする。
学生時代は、なんだかんだいってもマンドリンが頭から離れなかった。そんなことはないつもりでいたけれども、無意識のうちにマンドリンで弾ける弾けないとか考えていた。管弦楽曲を聞いていても、これはマンドリンで演奏できるかとか、っていう風に聞いてしまう悲しい性。
マンドリンを意識していた頃は、聴く音楽がどうしても管弦楽曲に片寄ってい た。もしかしたら、演奏会で何の曲ができるかを常に考えなければならない脅迫観念のようなものを感じていたのかもしれない。合唱曲なんか一生演奏会で取り上げることはないから聞く価値はない。無意識のうちにそう思っていた気がする。
ブランク後の笹崎は、管弦楽、室内楽、歌劇、声楽と、ジャンルを問わずに楽しめるようになる。とくに疎遠であった室内楽の中に素晴しい曲がたくさんあることを発見。新しい世界が広がった。
考えてみれば不思議なものだ。交響曲の中で少数の楽器のアンサンブルが美しく響くところには興味を持つくせに、室内楽は聞かない。交響曲に合唱が入ると感動するくせに、合唱曲は聞かない。ピアノ協奏曲のカデンツァはかっこいいと思うくせに、ピアノ曲は聞かない。音楽そのものを聞けばよかったのだ。こんな身近に広がりのある世界があったのに。
そういえば、一般的にピアノ弾きはピアノ曲とピアノ協奏曲しか聞かないし、歌歌いの人は、声楽曲とオペラしか聞かない。別に悪いわけではないし、いけないなんて言うつもりはさらさらない。けれど、せっかく広くて素晴しい世界があるのにもったいないな、という気はする。まして、マンドリンの曲しか聞かない人たちには。
さて、室内楽方面でとくに興味を持った作曲家は、Brahms、Mendelssohn、Schumannなど。中でもBrahmsはすごいと思った。今でもそう思っている。しかし、きわめてとっつきにくい。一度聞いただけでは良さがあんまりわからない。それでも、何度も何度も繰り返し聞くとだんだん良さがわかってくる。聞くたびに発見がある。興味が増してくる。形式にしても和声にしても対位法にしても綿密に計算され、工夫されているのが少しずつ見えてくる。しかも、細部にわたるまで計算しつくされているのにもかかわらず少しもひけらかすことなく、計算された跡をほとんど感じさせない静かな叙情がある。秋の紅葉に沈みゆく夕陽を眺めるようなロマンティシズム。噛めば噛むほど味が出るするめのような音楽だ。「するめ野球」は全然だめだったけど、Brahmsは本物だ。それがわかってきた頃には、あなたもきっとBrahms中毒。もう逆戻りはできない。
クラリネット五重奏曲はその中でも好きな曲の一つだ。3曲あるヴァイオリン・ソナタもたいへんすばらしい。初期のピアノ三重奏曲第1番も素敵な旋律だ。激しい路線ではピアノ五重奏曲もいい。あんまり演奏されないけれど、ホルン三重奏もいい曲だ。まあ、要はみんないいわけで。
その頃、Brahms以外で興味を持った室内楽はたとえばこんな曲。
Bach 音楽の捧げ物の中のトリオ・ソナタ
Berg 叙情組曲
Chopin チェロ・ソナタ
Debussy フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ
Franck ヴァイオリン・ソナタ
Mendelssohn 弦楽八重奏曲
Mendelssohn ピアノ三重奏曲第1番
Mozart クラリネット五重奏曲
Schubert ヴァイオリンとピアノのための幻想曲
Schumann ピアノ五重奏曲
ああ、みんなほんとうにすばらしい曲ですね。生まれてはじめて興味をもった曲は室内楽だったのに(→第1話参照)、なんでもっと早く室内楽に目覚めなかったかあ、そんなことを思う笹崎であった。
次回笹崎は、さらに疑問がふつふつと・・・。
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★ 今月の偉い人 ★
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★ 庇をする人間と、庇をしない人間。どちらが重宝されるか ★
★ ★
★ ★
★ (答え)庇をする人間 ★
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人間こくほう・・・・・・・・。
ああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
笹崎はただいま「今月」シリーズのネタを募集しております。
QYJ11250@nifty.ne.jpまでふるってご投稿ください。投稿して「今月」シリーズに載ろう、って載ってもあんまりうれしくないぞー。
◆笹崎の歴史20◆(98/8/27)
ある日、テレビをつけたら子供たちがスポーツ論争をしていた。野球VSサッカーだった。
「サッカーなんて、球を蹴るだけじゃん。野球の方がおもしろいよ」
「野球なんてただ棒振り回すだけじゃん」
「サッカーなんて、全然点が入んないし、つまんないよ」
まあ、こんな内容。あああ、比べても意味ないのに。その時、不思議とマンドリンのことを思ってしまった。無意識のうちにマンドリン・オーケストラとオーケストラとを比べていなかったか。
学生の頃の笹崎は、マンドリンでいい曲を演奏したいという思いだけでいっぱいだった。マンドリンにはマンドリンの良さがあって、そこを引き出すなんて考えも及ばなかった。
たとえば、マンドリン・オーケストラでMahlerの交響曲全集をやろうと思えばできるんだと思う。Bruckner交響曲全集もできる。BeethovenだってMozartだって、何だってできる。上手な賛助を金目に糸目を付けずに呼んでくればいいだけの話。でも、それって、どれくらい意味があるものなのだろう。
そのことは、オーケストラの編曲を否定するということではない。マンドリン業界の人はこう言う。「オーケストラのまねをしても所詮負ける。だから、アレンジものは邪道だ。オリジナルこそがすべてだ」。ほんとうに、そうか? 勝ち負けなのだろうか? そもそもオリジナルの曲はすべて、マンドリンの良さを引き出していると言えるのだろうか?
マンドリンの良さを活かしたオリジナル曲なんてあまり存在していない、というのが笹崎的発想の原点だ。マンドリンの良さを活かすということは、「マンドリンにしか弾けない奏法で書かれている」とか「マンドリンにとって弾きやすい」とかいうことを意味するわけではまったくない。「マンドリンのために書かれているから、マンドリンに合っている」なんて、短絡的すぎる。マンドリン・オーケストラという媒体(という言い方をしてみる。ほかにいい言葉がないので)の特質に合っているか、良さが発揮されているか、という基本的なことではないのか。
編曲の話を少しだけしよう。今まで、マンドリン以外の編曲ものもずいぶんたくさん聴いてきた。そこで感じるのは、原曲とは違った、思ってもいなかったすばらしい面を引き出すことに成功しているものも多数ある、ということだ。
個人的に好きな曲ではないが、MussorgskyのRavel編曲「組曲・展覧会の絵」などは、その代表格だろう。ピアノでは表現できない色彩感、壮大な音響がそこにはある。では、ピアノよりいいのか? 比べることなんてできやしない。それぞれに良さがある。これがほんとうの編曲だ。ちなみに、同曲にはほかの人のオーケストラ編曲もたくさん存在する。StokowskiとかFuntekとか。Aさんのオーケストラ編曲は最低だ。同じオーケストラという媒体を使っても、編曲の才によって曲の良さを引き出せるかどうかが決まる。
よい編曲は、ほかにもまだまだある。Griegのホルベルク組曲はもともとピアノ曲だった。後に作曲自身が編曲したのが現行の弦楽版。弦楽のソノリティを十分に生かしているではないか。これも、そんなに好きな曲じゃないけど。
Brahmsのピアノ四重奏曲第1番のSchoenbergによるオーケストラ編曲。編曲者は半分冗談(?)でBrahmsの第5交響曲と呼んでいた。Brahmsが一度も使ったこともない楽器をばんばん投入しているわりに、でも、Brahmsらしさが漂うといったおもしろい編曲だ。
同じ楽器へのアレンジもある。Mahlerの編曲シリーズ。BeethovenやSchumannの交響曲を大編成の現代楽器のために編曲したもの。当時の作曲家がもし現代の楽器のために書いたとしたら、というおもしろい着眼点である。 好き嫌いはあるだろうが、個人的には興味がある。
うーん、「世界の編曲大全」とか新コーナーを作らなくてはならないな。
今回のまとめ。編曲とは。レパートリーが少ないから編曲をする、という発想とは根本的に違う。いい曲だったら何でもいい、ということでもない。その曲の持つ新しい可能性を引き出すことである。また、引き出せる曲を選ぶことである。しかしマンドリンの世界には、こうした発想はほとんどない。残念なことに。
次回、笹崎はマンドリンの世界に復帰。
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★ 今月のヒーロー ★
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★ ウルトラマンは100m先の針の落ちる音も聞き分ける ★
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うるさくて眠れないのでわ。
◆笹崎の歴史21◆(98/10/11)
ご存じの人は多いと思うのだけれども、ジュネスという団体がある。オーケストラや合唱の人にとっての位置付けはよく知らないのだけれど、マンドリンを弾く人にとっては独特の意義があるように個人的には理解している。つまり、プロの指揮者のもとでいろんな経歴の人が演奏できる場であること。そもそもこういう団体はほかにはほとんど見受けられない。ほかにも練習場確保の苦労がなかったり、お金の面が出演側には楽だったり、いろいろなメリットがあるのだが、こんな話はまあいいや。少なくとも、プロの音楽家と接する機会が非常に少ないマンドリン奏者にとっては、刺激的な場であることは確かだ。
社会に出てからの笹崎にとって、あの激務(?)の会社に勤める中、貴重な時間を割いてでも出演したい演奏団体というと、ここしか考えられなかった。笹崎的には「仲良くやれればそれでいい」という発想はなかったし、お酒を飲むためにやる発想もなかった。みんなと楽しくやるだけだったら、賛助して飲み会で楽しくやったほうがいいと思った。
こんなことを書くと大きな誤解が生まれるかな。じゃあ、ちょっと補足。もちろん音楽と付き合うのに、良い曲悪い曲という価値判断がすべてではない。いろいろあっていいと思う。それぞれの人が自分なりに音楽とつきあっていけばいい。ただし、音楽との付き合いが深くなると、それなりに見えてくるものもある、ということではないかな。自分の場合、一度いい曲を演奏することのおもしろさや醍醐味を知ってしまって、そこにはまりすぎて逆行不能になってしまった。練習するたびに新たな発見をもたらすだけの一種の奥深さがないと満足できない体になってしまった。そういうことである。このことは、「笹崎歴史」愛読者のあなたならきっと理解していただけることだろう。
さて、このジュネスには、30歳の定年までに、夏の音楽祭2回(コンマス1回)、JMJコンサート4回(コンマス3回)に出演した。笹崎は何回もコンマスをしているので、そのことについて「すごいですね」とか言われたりした。そうか。割合からしてもすごく高いもんね。JMJコンサートで3回もコンマス務めた人なんてそうそういないかも。でもね、個人的にはトップかなんて正直どうでもよかった。価値基準は「深さを感じられる音楽かどうか」であって、「偉い・偉くない」とか「勝った・負けた」とか、そんなことは笹崎にはどうでもいいことなのだ。つまり、いい音楽にいい姿勢でのぞめれば、もうご満悦。
さて、JMJに1回出た後、笹崎はやっぱり自分たちで演奏会を開きたくなった。JMJだけでは満足できなくなったとか、JMJの運営に対しての自分の価値観の違いとか、もろもろあるにはあった。でも、単純に、もっと「ご満悦」を味わいたかったのだろうな。
しかしながら、自分のニッチな価値観にぴったり合うマンドリンの団体なんて、知る限り存在しなかった。やっぱり作らなければならないのかなあ、と思った。
最近すごく真面目な話だね。次回も真面目かもしれない。
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★ 今月の特産品 ★
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★ キティーちゃん干しシイタケ ★
★ (大分県) ★
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あらあら、キティーちゃんってぜんぜん節操なし。
「キティーちゃん生八橋」も新大阪駅のキオスクで発見!!笹崎はただいま「今月」シリーズのネタを募集しております。
QYJ11250@nifty.ne.jpまでふるってご投稿ください。
投稿して「今月」シリーズに載ろう。ネタが切れてしまうぞー。助けてくれえ。
◆笹崎の歴史22◆(98/12/21)
かくして、メトロポリタン・マンドリン・オーケストラの活動が再び始まったのである。めでたしめでたし。これで笹崎の歴史は盛大に幕を閉じる・・・・・わけにいかないので、まだ続く。メトロポリタン・マンドリン・オーケストラの活動が始まってからというもの、何かをきっかけに急激に自分自身が音楽面での成長または深化が起こる、というパターンではなくなった。年のせい? ただ、この10年の間にかなりの変化を遂げていることは確か。当時は、自分が将来音楽面で大きく変化するなど夢にも思わなかったのだが。
ということで、これから数回、時間軸ではなくさまざまな側面からここ10年を振り返る企画でお届けする。
●まずは、指揮者編。
指揮者になりたい人にはいくつのタイプがあると思うのだが、「目立ちたがり屋タイプ」「偉い地位に君臨したいタイプ」とかは自分の場合無縁である。学生時代、不幸なことに身のまわりでいい音楽を解釈できる指揮者がほとんどいなかったので自分で正しい音楽解釈を目指さなければならなかった、というのが笹崎の場合の指揮者のルーツ。したがって指揮者というよりも、自分自身の中では「音楽解釈者」としての位置付けの方がはるかに強いと思っている。
さて、学生時代の指揮のスタイルは、どちらかというと対位法的解釈や全体構成構築の方に寄っていたように思う。それは、高校や大学のマンドリンクラブのポップスクラシック路線に満足できなくなったことへの反発であったのだが。また、そのころから「笹崎テンポ」という言葉が定着し、テンポの遅さを指摘され続けている(そうでもないと本人は思っている)。チェリビダッケ先生の真似とかジュリーニ先生の真似とか、いろんな指揮者の真似だと言われるのだが、それは違う。自分の指揮はまったくもってオリジナルだ。「チェリビダッケ先生はこうするだろうから、自分は」なんてことは一切考えない。先ほど挙げたお二人をはじめ、さまざまな指揮者に影響されているのは確かなのだが(フレージングなどはチェリビダッケの影響が大であるし)。ただ単に、笹崎の頭の中で鳴り響いている音楽に忠実に振ると結果的にテンポがほかの人に比べて遅い、というだけのことである。指揮者というもの、年をとると円熟してテンポが遅くなるというのが定説だが、そのあたりはどうなのだろう? あと4、50年して振ったら第9が2時間くらいかかるのだろうか?
社会人になって多少力が抜けてからは、フレージング、バランス、響き、このあたりに興味関心が移ってくる。知っている人は知っていると思うが、練習の時はこのあたりに関してめちゃめちゃ細かい。弾ける弾けないより大切なことがあると言わんばかりに(実際そうなのだが)、とにかく細かい。音の延ばし具合、音と音の間の処理、音の抜き具合、声部のバランスの関係、アクセントの音色について、歌い回しなどなど。おまけにフルトヴェングラー並みにテンポが早くなったり遅くなったり、ためたり、微妙にルバートしたりするもんだから、弾いてる方はたいへんなのだろう、きっと。ほかの人のことは知らないが、自分の場合、頭の中に音の高さだけでなく、テンポ、音色、ディナーミク、すべてが決定されて鳴り響いているのだ。だから、しょうがないのである。
頭の中にあるやりたい音楽と現実に出る音が違う場合にどうするかという治療法(?)の方は、年々少しずつ進歩してきたように思う。JMJへはこれを学ぶために出ていたようなものなのだが、実際に勉強できたことはあんまりなかった。むしろ、チェリビダッケ先生の練習風景を見に行ったときの方が勉強になった。この話はきっと別に機会にする。
笹崎はどこで指揮をしているのか。メトロポリタン・マンドリン・オーケストラを復活させてから2回くらい振ったのだが、このオーケストラで振るのはやめた。プロの指揮者に振っていただく路線が定着するまでのつなぎに、と思っていたからだ。この後はメトロポリタン以外で時々振っていたのだが、このときは自分の編曲だけを演奏するスタイルに移行していった。編曲ものでもオリジナルでもそうなのだが、 どうもほかの人のオーケスレーションが気に入らないのだ。もっと言うと、耳がおかしくなるのだ。ここ数年自分のオーケストレーションのもの以外振っていないんじゃないかな。大阪に来てからは指揮活動をやめている。練習に出られないからだ。
さて、この指揮であるが、自分は本当はそんなに好きではないのかもしれないと思う。自分がほんとうに満足できる音楽というのは自分の価値観を覆えすような音楽でなければならず、自分の解釈以上のものは自分が指揮している限り験できないからではないか、そう自分では分析している。時にはいい演奏が生まれるかもしれないけれど、自分が心底から体験したいのはそういう「いい演奏」ではないのだな。それでチェリビダッケ先生の演奏をよく聴きに行っていたのだけれど、今となっては自分の価値観を覆えすような音楽を聴かせてくれる人は少なくなってしまった。
とりとめもなくだらだら書いて見たが、次回は、好きな音楽の変遷。きっとだらだらと徒然なるままに書く。
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★ 今月の法則 ★
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★ 止まっているエスカレーターに乗った瞬間はいい気持ち ★
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「これは階段なんだ、エスカレーターじゃないんだ」とどんなに自分に暗示を強くかけても、乗ったとたん体がふっとなりません? さて、このことを何と言うでしょう。
1.慣性の法則
2.パブロフの犬
3.犬も歩けば棒にあたる
それでは、また。
◆笹崎の歴史23◆(99/2/2)
今回は、好きな音楽の変遷。これには、新しい曲を開拓する方向と、今まで開拓した中で自分のブームとなった音楽と2つあるのだけれど、今回は前者のみ。
以前書いたと思うけれど、笹崎がCDを買い始めたのは社会人になってから。それまではお金がなくてFMラジオの録音と上野の文化会館資料室に頼って音楽開拓。社会人半年ちょっとはあまりにも心と時間のゆとりがなかったけれど、慣れれば慣れるものでカルロス先生のオペラを見にいったことをきっかけにCD購入に走ることとなった。(第18話参照)
予想される通り、まず凝ったのがオペラ。FMではあんまりやらなかったし、歌詞わからないし、上野でもそんなに長居できるわけではなかったから、笹崎にとっては新規の分野であった。大学時代に出会ったオペラは非常に片寄っていて、Bartokの「青ひげ公の城」、Bergの「ヴォツェック」、Debussyの「ペレアスとメリザンド」、Ravelの「子供と魔法」、Schonbergの「モーゼとアロン」、くらい。大学時代に大好きになった作曲家に絞って、管弦楽以外もついでに聴こうというスタンスだった。
はじめて大金を投じて購入したのは、お約束、Wagnerの「指輪」全曲である。カラヤン・サウンドにいい意味で騙され、これがオペラにのめりこむきっかけとなった。Wagner、Mozart、Verdiと次々に買いまくり、ついに好きなオペラ作曲家と出会う。PucciniとR.Straussである。
Pucciniが好きだ、って公表してしまうことはちょっと恥ずかしい気もしなくもない。泣いてくださいと言わんばかりのわざとらしさがあると思うし。でも泣いてしまうからなあ。音楽的にどうこういうより、それ以上にオペラそのものの面白さがここにはある。「蝶々婦人」はそんなに好きではないのだけれど、「ボエーム」「トスカ」「トゥーランドット」、この3つはすごくお気に入り。涙腺弱い笹崎はいちころなのだ。独特の気持ちいいオーケストレーション、音色への配慮、意外な転調(というより違った調への跳躍)、このあたりは音楽的にも興味のあるところ。
R.Strauss。はじめて買ったのはお約束の「ばらの騎士」だったのだが、これがまた眼から水分が。最後の二重唱があまりも美しい。ううむ、カラヤンおそるべし(そういえばPucciniの3つもカラヤンだった・・・)。さて。その次に聴いた「サロメ」が衝撃的だった。同じ作曲家が書いたとは思えない、その音楽的な書法の差にびっくり。ある意味で暴力的な音楽を聴くにつけ、「ばらの騎士」のおしゃれで優雅な音楽作りはどこへ、と思ったものだ。その後、さらに暴力的な「エレクトラ」と、それとは正反対に優雅で甘美な「アラベラ」と両極端の音楽を聴くにつけ、この作曲家に以前以上に大きな関心を持つこととなる。
以下は私見。R.Straussの生きた時代は音楽的に激動の時代であった。没した1949年はSchonbergも晩年であったし、Boulezはもうピアノ・ソナタ第2番まで発表し終わっている(ここまで本当)。12音音楽も発展した時代、R.Straussの本分であるロマンティシズムを管弦楽曲に託すのは時代遅れではないか、と作曲家自身思っていたのではないだろうか。そして、ある意味で過去の書法となったロマンティックな調性音楽を託せる音楽ジャンルとしてオペラを選択したのではないだろうか。R.Straussのオペラを聴くたびに、そんなことを考える。ほんとうかどうかは知らない。
さてさて。室内楽への興味が湧いてきたことも紹介した(第19話参照)。室内楽も主要な曲を次々と購入し、まあまあ一通り収集し終わると、次のジャンルを探さなければならない義務感のようなものを感じた。遊牧民が次の土地を探すのと同じである(ほんとうか)。ターゲットは合唱曲。
ミシェル・コルボという指揮者がいる。この指揮者は、Faureのレクイエム(笹崎がもっとも好きな宗教曲)とDurufleのレクイエム(これまたきれいで素敵な曲)のCDを買って気に入ったのだと思う。続いてHoneggerの「クリスマス・カンタータ」(清しこの夜が出てくるけれど、実はその前の音楽が緻密で素敵なのだ)とか近代合唱を開拓。そしてそのうち宗教合唱曲全般がおもしろくなったのだった。ちなみに今好きな合唱曲はFaureの「レクイエム」、Mozartの「レクイエム」、Brahmsの「ドイツ・レクイエム」、Bachの「マタイ受難曲」「ミサ曲」、このあたりである。
コルボが好きになった効用はもう一つあった。コルボは近代の合唱曲もよいのだが、専門は古楽の合唱曲である。この分野はほとんど知らなかったので、これまたどんどん買いこんだ。そんな中で出会った素敵な作曲家がMonteverdiである。いや、どこがどういいとうまく言葉にできないのだが、間違いなく天才だ。こんな昔の人なのに、新鮮な不協和音すら響く。音色への配慮もすごい。バロック以前はどちらかというと音色への関心が薄かったように思うのだが(ドイツ音楽はバロック以降も無関心だが)、Monteverdiは違う。どうすごいかは、「マドリガル」を聴くととわかる。コルボのマドリガーレ選集(6枚組)を聴くとウロコから眼が落ちる。
最後に現代曲ジャンルである。これはもうライフワークになってしまっている。現代音楽がとっつきにくいのは、そもそもの複雑さ、理解しにくさに加え、「この作曲家は」という定評はあまりないため自分で開拓して見つけなければならないめんどくささが伴うためだろう。でも、逆に自分が発見したと勝手に思い込める「マイ・作曲家」とでも言うべき作曲家に出会ったときの喜びは格別である(みうらじゅん的)。マイ・作曲家第1号はご紹介したようにSchnittke先生であったのだが(第13話参照)、その後、Aho(フィンランド)、Denisov(ロシア)、Knussen(イギリス)、Norgard(デンマーク)、Silvestlov(ロシア)、Ustvol’skaya(ロシア)、などの方々がマイ・作曲家として密かな喜びを提供して下さっている。次なる「マイ・作曲家」を求めて、今日も現代音楽コーナーに向かう笹崎である。
ということで、クラシック音楽は得意不得意のジャンルはあるけれど、あらゆる方向でほんとうにまんべんなく楽しめるようになった(歌系は語学ができないので苦手なのと、バロック・中世・ルネッサンスの音楽は得意でないのだけれど)。ピアノ奏者はピアノだけ、指揮者はオーケストラが入る曲だけ、マンドリン奏者はマンドリンだけ、っていうのも人それぞれでそれはそれでいいけれど、いろいろなジャンルを聴くとさまざまなものが立体的に見えてくるおもしろみがあって、それがやめられないということですな。
次回は、クラシック以外との接点と新団体設立のお話。あいかわらず、徒然なるままに。
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★ 今月の誤変換名曲 ★
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★ ある半ブラの思い出 ★
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思い出すなあ。あれは中学生の頃・・・
それでは、また。
◆笹崎の歴史24◆(99/3/14)
正直なことを言ってしまうと、以前はクラシック以外の音楽に興味がほとんどなくて、クラシックこそ正しい音楽、みたいな気持ちがあった。聞く人が聞くとたいへんお怒りになるだろうなあ。心の狭いことだったと思うのだけれど、これはこれで成長(?)の過程に必要なステップであったのかもしれない。笹崎の歴史を語る上では重要なことだったりするので、ほかの価値観を認められない了見の狭さを暴露するみたいだが、今回はこのあたりを中心に。
まず、クラシックの、それもいわゆるお固いジャンルや演奏以外への開眼。おそらくはじめてのきっかけは、「ケルンのフィルハーモニー・チェロ合奏団」という演奏団体だった(第17話参照)。音楽の善し悪しを同一ベクトル上で考えていた自分の狭い価値観を広げてくれたのは、この団体である。
同種の団体も発見し、アムステルダム・レッキ・スターダスト・カルテット(リコーダー四重奏)をはじめ、コントラバス四重奏、フルート・オーケストラ、クラリネット・オーケストラ、サクソフォン・オーケストラなど、「変わった編成もの」を聴きまくった。レパートリーが少ないところをどんなコンセプトでカバーしているのか、なんてところは、マンドリン・オーケストラにも参考になるところが多かったりする。
冗談音楽のジャンルとも出会った。ホフナング音楽祭とPDQバッハがこのジャンルでは2大巨匠(???)にあたるのだが、音楽のエンターテインメントの側面をいやというほど(本当)教えてもらった気がする。
クラシック以外を聴くきっかけになったのは、エリック・カンゼルの映画音楽(やラテン、ディズニー、ビッグバンドなど)、キングズ・シンガーズ(男声六重唱)、そしてフリードリヒ・グルダのジャズなどである。とりわけキングズ・シンガーズによる「ビートルズ」は衝撃的であった。男声とは思えない高音や、各種楽器や音の模倣など、演奏技術の高さをこういう方面で使うというゴージャスなやり方に恐れ入ったものであった。そうそうそれから、グルダはあんなにすごいBeethovenのソナタを弾き、それだけで偉大なピアニストなのに、なのになぜジャズも演奏するのか、というところが笹崎的に大きな尊敬に値したのであった。
そのうち、クロノス・カルテットなるお気に入り団体が出現し、ジミ・ヘンドリックスやらジョン・ゾーン(「狂った果実」太田裕美の声入り! なぜ太田裕美?)などを聴くにつけ、クラシックとクラシック以外にジャンルを勝手に分けてしまうことは自らを狭いものにしてしまっているのだなあ、ということに気が付くに至る。
クロノス・カルテットに出会った後、会社の友人からロックのCDを50枚借りて聴きまくる。ジミ・ヘンはすごいということを発見。以降、ポピュラー系のCDも笹崎家に増殖してきたのであった。なぜ、笹崎家にアニメやらジャズやらロックやら脈絡もなくCDが転がっているかというと、こういうことである。
さて、こんな中、小楽団を作りたくなったのは言うまでもない(なんで?)。2つの団体が立ち上がった。
まず1つ目は「めぞふぉる亭」。O氏とH氏と笹崎の3人で構成される。「ピアノおよびそれぞれの人が演奏可能な楽器」を駆使して、知り合いを中心にお楽しみいただこうという団体。ピアノはね、みんな素人なのよ。でも、演奏技術とかよりも、そもそも3台のピアノを使う発想のおもしろさとか、エンターテインメント性を発揮することで、ハッピーな演奏会ができないかという、そんなコンセプト。聴きにいらっしゃった方にはおわかりだと思うのだが、演出、パンフ、衣装など、演奏面以外にやたらパワーを割くのだ。衣装に使う布地を渋谷に買いにいったりとか、パンフレットにプロのコピーライターやカメラマンを起用したり。使う楽器も、H氏得意のフルートはもちろん、マンドリン、ヴァイオリン、弾けもしないチェロ、おもちゃのピアノ、はては試験管とフラスコ、スライドホイッスルなどが登場する。ネーミングも笹崎が付けたのだけれど、いいでしょ、フォルテでもピアノでもないこの中途半端でお気楽な感じが。
2つ目はこの「笹崎歴史」を掲載していただいている「はむらぼ」様と結成した、「笹崎譲と奥多摩くゎるてっと」。こっちは、マンドリン2、マンドラ、マンドロンチェロ、そしてギターを基本に構成される技巧派ポピュラー・ミュージック演奏団体。選曲には厳しい掟が存在する。
- そこそこ有名な曲でなければならない。
- 必ず特殊奏法が含まれなければならない。
たった2つの縛りなのだが、これがそうそう満たされないのだ。なにしろ、アニメのテーマソング100曲聴いて選んたのは「ゲゲゲの鬼●郎」だけ。結成以来それなりの年数は経ているが、編曲されたのはわずか15曲ほど。ぜひとも読者の皆様に、次の候補曲を募りたいところである。
「数少ないレパートリー一挙公開」
- パー●ル・ヘイズ(ジミ・●ンドリックス)
- 映画「●ターウォーズ」より「酒場の音楽」(ジョン・ウィ●アムス)
- 「ピンク・●ンサー」のテーマ(ヘン●ー・マンシーニ)
- 「ゲ●ゲの鬼太郎」のテーマ
- UF●(ピンクレ●ィー)
- ●ウスポー(●ンクレディー)
- カルメン●7(ピン●レディー)
- 笑点のテー●
- マンボNo.●
- プレイ●ック・パート2(山口●恵)
- 絶●絶命(●口百恵)
- ズル●女(シ●乱Q)
- ●イディーン(Y●O)
- 愛する●ューク(スティーヴィー・●ンダー)
- トワイライト・●ーン(マンハッタン・トラ●スファー)
「特殊奏法一挙公開」
- チョーキング
- ボトルネックの使用
- やる気のないグリッサンド
- 駒の裏側を弾く
- 調弦をわざと狂わせる
- 楽器を叩くのは当たり前
- バルトーク・ピチカートも当たり前
- 1組の弦で2つの音を出す などなど
次回は、笹崎はなぜ作曲をしないか、について。
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★ 今月の疑問 ★
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★ 日能研の問題はどんどん難しくなっていないか ★
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見る方の頭脳が退化していることも、決して否定できまい。
最近では、某女子中学の入試問題が難しかった。不合格間違いなし。
女子中に入るのは子供の頃からの夢だったのに(うそ)。
それでは、また。
◆笹崎の歴史25◆(99/4/27)
笹崎は作曲はしない。ひとことで言うと、才能がないのですな。
作曲しない最大の理由は、現代における自分なりの音楽の立ち位置が確定できない、ということのように思う。こんなレベルで話すのがいいのかどうかわからないのだけれども、「調性」を例にとってみる。もちろん立ち位置を決めるのは調性の問題だけではなく、形式の問題、対位法の問題、音色の問題、いろいろあるのだが。
一つ言えるのは、この現代において調性音楽を書くことはたいへん勇気のいることである、ということだ。いわゆるクラシック音楽のジャンルにおいて調性音楽を作曲できる人は、2種類に大別できると思っている。音楽語法の歴史と変遷を熟知した人と、何も知らない人とに。
調性が崩壊した後の現代音楽のさまざまな方向性と語法を知り、咀嚼し、それでもなお調性に戻ってきた作曲家の音楽は独特の深さを感じる。例えば、以前は実験的な手法を駆使た曲を書き、晩年にはあの美しい調性(もちろん一般的な調性ではないが)の海へと戻ってきた武満徹さん。ほかにMessiaenをはじめ、Penderecki、Schnittke、Gubaidulina、Part、Denisovなど、多くの作曲家がいわゆる前衛手法を自分のものにした後、調性あるいはそれに近い語法に回帰している。いや、回帰というのはまったく正しくない。それぞれの作曲家がそれぞれの手法で、和声の新たな道を切り拓いているのだ。
ほとんどあらゆる無調を経験した現代において、調性をどう扱うか。さまざまな作曲家が挑み、あるいは対峙し、もしくはこの問題とは無関係な場所に新たな地を見い出す。自分は、ここに立ち向かう才能を感じない。
マンドリン業界で一般的に作曲され演奏される曲くらいのものであれば、たぶんいつでも書けるだろう。現代に至るまでの音楽の葛藤について何も知らなければ、それはそれで気軽に曲が書けるのかもしれない。しかし、もはや自分は昔に戻ることはできない。
次回は編曲について。深刻な発言も予定。
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★ 今月の法則 ★
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★ 「いいお友達でいましょうね」のあとは ★
★ たいがい「お友達以下」の関係になる ★
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Discoverd by Y. Sasazaki in 1990s.では、また。
◆笹崎の歴史26◆(99/6/1)
笹崎は、大学生時代の頃から1つの大きなジレンマがあった。マンドリンのために書かれたオリジナルの楽曲を指揮していると、あまりにも「アラ」が見えてきて手を入れたくなる衝動に駆られるのである。
もう、とにかくだめなんである。全体の構成(しかも弱っちい)から考えて、ここは音を厚くすべきとか、ここは対旋律がないと間が持たないとか、次々見える。そうなると、全体がもたないのをオーケストラのせいにするわけにはいかない。かといって間を持たせるために解釈を変更すると全体がぐしゃぐしゃになり、ただでさえ脆弱な全体構造が崩壊する。
ならばそんな曲を取り上げなければいいのだと思い、指揮者を引き受ける際には選曲にも口を出して極力断っていたのだが、いつもそういうわけにもいかない。諸事情あるからね。
そんな中、笹崎は1つの解決方法を考え出した。危険だが仕方がない。自分でオーケストレーションを再構成するのだ。
危険を伴うだけに、作業は実に慎重であった(こんなこと自分で言うのも何ですな)。編曲前には、作曲家の生存していた時代の書法、主にイタリアのオペラ作曲家の手法について徹底的に調べまくった。とくにPucciniのオーケストレーションに関しては時間をかけた。そもそものねらいは、もしその作曲家が同時代でトップクラスのオーケストレーションの方法論を身につけていたらどんな響きになるかを再現すること。譜面に忠実なことよりも、作曲家の「頭の中にあったであろうもの」を忠実に再現することを優先させた。具体的な作業は次の通り。
・和声および和声構成音を正す。
・必要箇所には対位法を同時代作曲家と同等に使用。
・悪しき慣習によって定着しているテンポ解釈等を正常な状態に直すための
テンポ記号等の書き換え。この編曲シリーズは、自分の中でも通常の編曲とは区別したいので、「トランスクリプション」という名称で呼ぶことにした。結果的に原曲と大きく異なるものに仕上がっている。
さて笹崎は、もともとこのトランスクリプションのシリーズを、あまり大々的に公表するつもりもなく、また、するべきものでもないと考えていた。業界の冷ややかな反応は予想するまでもなかったし、真の意図を理解してくれそうな人も、直接思いのたけを話すことのできる演奏者以外に想像できなかったからだ。
ところが、1996年のある日、某団体がこのトランスクリプション版を演奏したいと言ってきた。取り上げた理由とか、詳しいやりとりの内容は忘れた。おそらく笹崎は「多忙のため練習に立ち会えそうもなく、しかも作品の特殊な性格上、一歩間違うとほんとうに間違ってしまう危険性を持っているので、できるだけご遠慮申し上げたい」と伝えたのだと思う。が、何回かのやりとりの後、結局それは取り上げられることになった。今思えば、断固拒否しておくべきだったのだが。
笹崎は結局その団体の練習は見に行けず、そのかわりに演奏上の注意点(各所の変更意図を細かく示し、どう演奏されるべきであるかを書き記したもの)を書き送った。そして、不安半分期待半分で演奏会に足を運んだ。そこでは、自分が苦心して変更したテンポ設定は過去の悪しき習慣通りのものに戻され、丁寧に書き込んだはずの細か「フェルマータの設定やら何やらも従来通りのものに戻された演奏が行われていた。
編曲者の意図は何一つ反映されていなかった。何のためにこの版を使ったのか。時間のない中、演奏上の注意を書き起こしたのは何だったのか。何も理解しようとせずに演奏するのなら原曲をやればいいのに、 と言いたかった。もしこれが自分が作曲したものであれば、下手な団体、読みが浅い指揮者、と思うだけで済んだかもしれない。しかしこのトランスクリプションは、演奏から真意が伝わらなければただのさらし物となるのだ。
読解力がこんな低レベルな世界で編曲を続けることに自分にとってどれほどの意味があるのだろうかと考えてしまう一件であった。数日後編曲活動から手を引こうと決意。
ほんとうはすぐ手を引きたかったのだが、まだメトロポリタン・マンドリン・オーケストラの長大な編曲が残っていた。いったん引き受けたのを反故にするのはわがままに過ぎるので、笹崎はこれを最後の編曲だと内緒で位置づけ、悔いの残らないものに仕上げることを決心。そして、当面は編曲に没頭し、終了後あらためて編曲活動終止について考える時間をとることにした。
いやいや、ほんとうにめげていたのよですよ。この気持ちって実際に作曲や再構成に近い編曲をした人でなければわからないだろうなあ。
1996年9月、最後の編曲終了。そのまま小旅行に。誰に根回しするでもなく、編曲活動終止宣言をメトロポリタン・マンドリン・オーケストラ演奏会終了後に行うことを、自分の心の中で勝手に決定。
そんな笹崎が今でも編曲を続けているのはなぜ? 次号を待たれよ。
※トランスクリプションのシリーズの譜面は「イケガク」と笹崎家にありますが、禁コピーとなっております。演奏も上記理由でお断り申し上げております。研究用の閲覧は可能です。
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★ 今月の男と女 ★
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★ 男はその女の最初の男になりたがり、 ★
★ 女はその男の最後の女になりたがる。 ★
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★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★これは笹崎作ではありません。でも、けっこう気に入ってます。
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